76.物語の効用についてのわたしの見解

まずは効用について辞書的な意味を貼っておく。
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 今回はタイトルの通り物語の効用について個人的に思っていることを書く。と言うのも村上春樹の短編集「夜のくもざる」にて物語の効用について書いてあるということを知ったので、それを読む前に自分でも書いておいて答え合わせをしようという試みなのだ。リスクのある試みである。要するにバカがバレるかもしれないではないか。いいじゃない。バカがバレたっていいじゃない!という気持ちがないわけではないのでやってみることにした。このような機会でもないと自分の物語論などを語れる機会はないだろうという計算もある。というわけで様々な目論見が背後には蠢いているが、短慮のなせるワザという顔をして書いてしまおうという腹なのだ。

 

 本題に入る。

 人は物語にすることで何かを理解する、とわたしは思っている。水が100°Cになったら沸騰するとか、水が沸騰する温度を100°Cと定めたとか、そういう物理法則についても物語で理解して記憶する。だから漢字を覚えるのに由来の物語を知ることが有効だったり、歴史も年号と出来事をひたすら覚えるよりは、流れを理解することが暗記の手助けとなる。物語にする、ということは象徴化であり、抽象化であり、単純化であり、個人的な選別なのだろう。

 

 なので他人が書いた物語を読むということは他人の理解を読むことだ。

 そのため、共感、反発、知らないことを知る、見たことない表現に触れる、などが味わえる。要するに、他人の世界に触れることなのだ。他人が加工したものなので、自分には合わないことももちろんある。加工したものなので、見せてもらえないものもある。とはいえ、たとえが適切かはわからないが、家に招いてもらう、くらいの情報をいただくことができる。ありがたいありがたい。

 わたしの場合、物語を読むことで自分の世界観にないものが垣間見れるととても嬉しい。自分と違う人が世の中に生きているのだなと嬉しくなる。

 

 次に自分で物語を書くことの効用について書く。

 これは、自分が面白い、美しい、尊い、価値があると思うものについて、それのどこがどんな風にグレートなのかを理解するのに役立つ。グレートさを最大化するためにエピソードを選別し順番を考慮する過程で、そのことついての理解が深まる。

 作品が完成すると一定の距離が生まれることも独特だ。自分を蝕んでいた苦悩でさえ、書き終えた後は「そのことについてはあの話で考えたからあそこにまとまってるな」という感じで距離ができる。これは作品を書き直すとバランス調整が大変で嫌なので、それを回避するために心理的距離ができるのでは、と思っている。

 というわけで物語を書く効用は理解が深まること&心理的距離が作れて客観視できるようになることの2点になる。

 

 あともう一つ。

 ある種の感情については説明では伝わらず、状況を書いて読ませ、擬似体験させることでしか伝えられないと思っている。脳という感情の再生装置に対して、物語を読み込ませることで感情の再生を図ろうというものだ。CDプレイヤーとCDの関係のようでいて、ちょっと違う。目的は読者の中にだけ発生する感情なので、再生がうまくいったかどうかはわたしにはわからない。わからないながらに試すしかない。

 もっとよい方法があるかも知れないが、これよりローコストで擬似体験させる方法は思いつかない。書く側がローコストな分、読む側の脳への依存度が高くなるが、そこはまぁ持ちつ持たれつということで。読者の皆さんの擬似体験能力を信頼してこのブログは成り立っているのだ。

 みなさん今日も読んでくださってありがとうございます。

 

 さて、というわけでここから下は夜のくもざるを読んでから書く。

 

短編集「夜のくもざる」

「夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について」

を読んだ。

 ……大体あってた。

 作品として表現してるのが村上春樹さん。

 テキストよりパワポで書いた方が良さそうなのがわたし。パワポは矢印がうまく使えないのでヘタなんだよなぁ。「この矢印が表現しているのは〇〇である」とか矢印の横に書きたくなってしまう。

 パワポ頑張ります。

 矢印マスターになります。

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