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会話の間の地の文は、どっちが喋ってるかわからなくならない限りはナシでいいや派なのだ。しかし本当にあれでいいのかと思う時がないわけではない。
喋るたびに
<と言ってぼくはアイスコーヒー飲んだ>とか
<言い終わると彼はぼくの目をじっと見た>とか
<と、彼女は微笑んだ>とか
を入れてるとマジで書く気が失せてしまうのは確かなのだ。読んだ時にもその地の文は1行まったく面白くないし。読むだけで損をする。(すごいひどい言い草だが……)
「会話の間の地の文1行がつまんなすぎて、申し訳なさすぎて辞めたくなる」
というのはわたしだけがかかってる病気かもしれないので、恥を忍んで満天下に開帳し、同志を望むものである。
これには「小説」って形にするために書いてる感があっていやなのもある。
小説書いてる他の人からツッコまれないために書いてるみたいな。
たとえるなら、「なんか言われたらやだからとりあえずスーツ着とくみたいな窮屈さ」に近い。
でもどっちが喋ってるかわからない時は入れる。3人が会話したら入れざるをえない。でも「3人で会話させなきゃいいや。一人づつ話せばいい」とかも考えてしまうくらいには地の文が嫌なのだ。
「こちとら素人作家よ!面白くない部分までも丁寧に書くのは商売でやりな。それに、読む側のコストもゼロじゃないんだぜ」みたいな居直りがある。
このことをまとめてたら、会話中の地の文でめちゃくちゃ面白いことが起きてれば嫌にならないかもと思ったのでそのうち試します。
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「物語の中で登場人物が著者の思想を垂れ流すスピーカーになってしまった時に萎えるんだよなぁ」っていう感想を見た。(わたしの作品に対してではない)
まぁこれは「もっと上手くやれよ」ってことなんだろうけど、丁寧にやるほど二人以上の思想の対立を書くコストがバカ上がりするから難しいよなとも思ったのだ。作り手のコストだけならまだ無視できるかもだけど、読むコストも結構大きい。
これはわたし自身が「考えるための材料になるものが欲しいのであって、物語世界がどうなろうと興味ない」という鑑賞スタイルになっているということなのだろうけど。
でも新作ガンダムを見る時に「富野先生が何を言いたいのかが知りたいのであって、この戦争がどうなったってどうだっていい」という鑑賞スタイルは割とよくあるのではあるまいか。
まぁこういうめんどくさい奴向けにモノを作ったって広く売れないというのはわかるけど。
この問題は人間観の問題のようにも思うのでちょっと極端に言いながら考えてみる。
仮説①
「人は他人の意見は見たくない。物語の形をとっていれば、ひまつぶしとしてかろうじて手に取ってもらえる」
仮説②
「人は信頼関係の成立している相手の意見は見たいと思うようになる」
仮説③
作家は仮説②の状況に至るため仮説①を利用する存在である。一度②の状況になってもそれをキープするため、定期的な①が必要。
……うーん。邪悪な感じがするが今のところ否定できる意見が出せない。しばらく前に書いた物語の効用についての記事を読み直しながら考えよう。
76.物語の効用についてのわたしの見解 - くだらないものを残そうとわたしはきめたのだ。
雑多なまとめなのでスッキリしないまま今回はここで終わる。わたしはしつこいのでこの話の続きを数年後にいきなり書くかも知れない。