12.VRゲームの予測について-3(201607)

VRゲームを遊んできたのだった。

 Project i Can

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 予約しなければ入ることができないが、前日夜にサイトをチェックしたところたまたま空いていて予約できたのだ。おそらくキャンセル枠と思われる。ありがたいありがたい。きちんとキャンセル手続きとる人、素敵です。

ちょっと広めのカフェ程度のスペースを90分20名程度で占有するため、さほど待たずにアトラクションを体験できる。

13歳以下は利用禁止。

大人だけでいこう。付き添いもいけるぞ。

 

「 高所体験show」

「スキーロデオ」

ボトムズ バトリング野郎」

を体験した。

 

いやー凄かった。

勝手にキャッチコピーを書くと

「理性以外はダマされる」

といった感じ。

 

手と足にもセンサーをつけた「高所体験show」がもっとも面白かった。お値段も高い。(一回千円)

内容は地上200階の光景の中、ビルから突き出た板の上にいるネコを助けるというもの。

映像は一昔前のアーケードゲームくらいで、かつての「クレイジータクシー」よりは綺麗だなくらいのものだったが、臨場感がすごい。

たった2メートル進んでネコを抱えて戻るだけで、呼吸は乱れて息はあがり、大量の汗をかいていた。一緒に行った人によると、スーパーへっぴり腰だったそうで。

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これはスーパー頭突き。

(スーパーって言い方がわたしは好きなのだ。)

 

 

うーんVRすごかった。

そしてすごさを人に話したくなる。

でも体験してない人には言葉ではうまく伝えられない。

でもきっと、うまく伝えられないことが普通なのだ。ごはんの美味しさも、バレンタイン前日にチョコレートを溶かす時の不安と不安と不安と期待の入り混じった気持ちも、言葉ではうまく伝えられない。だから思わず口元が緩むだとか、心臓が張り裂けそうとか自分の身体に起きた変化、つまり観測可能な結果を伝えて、それで少しでも伝わることを期待するのだ。伝わったかどうかの真偽もわからぬままに。「言葉は祈りのようなものだ」と言った人もいた。そんな感傷的で無害なことだろうか。他人の中に自分のコピーを作ろうという行為のほうが、近いようにも感じる。精神的な侵略と無関係だとはわたしには言えない。

VRにはこれまでの「普通」の範囲を超えそうな可能性も感じるが、他者との関係性も含めた社会的な体験を体感させるには、時間の圧縮に問題があるだろう。体感させるだけの価値のあるものは何か、という問題もある。(アウシュビッツや交通事故なんて声もあるかもだが、大人が自分の判断で見るべきものだと思う)ステロタイプな体験は量産可能だろうが‥‥飽きるのも早そうだ。

いずれにしてもわたしがここで言えるのは「VRをやったらへっぴり腰であった」ということだけだ。あともう一回お金を払って猫を助けたいかといえば、ノーということ。

 

なお、マスクの目の部分だけ穴を開けたようなものがあり、それをつけてからVRゴーグルをかぶる。そのため衛生的なものを気にする人も、かなりの割合でクリアできているのではないかと感じた。これはアトラクションとして流行するのではないだろうか。カフェ程度の広さで始められ、客一人あたりの単価もそれなりにとれる。ソフトを作るまでのコストが高いが、それはいずれ解決されるだろう。エンターテイメントの定番の一種として定着する可能性は感じた。

ショッピングモールなどと相性が良いかもしれない。子どもができないのが非常に大きい壁となりそうだが。

 

というわけでVRゲームについての予測を6月の頃から書いていたが、体験した今も家庭用ゲームとは用途が違うなという予測は変わらず。

新たな市場を作れるだけのポテンシャルは感じるので、規制が少ないといいな。