6.すーちゃんの感想と昔話。

mahさんの漫画紹介記事が大変面白かった。

ので、わたしもすーちゃんシリーズを読んだのであった。

 

http://mah-soresore.hatenadiary.jp/entry/2016/06/16/230952 

http://mah-soresore.hatenadiary.jp/entry/2016/06/17/124647

するどい視点と品の良い文章だ。

あやかりたいあやかりたい。

 

 

以下、一冊ごとにざっくり一言解説する。

やってみてわかったが、この漫画の要諦は思考速度のテンポと、抽象的かつシンプルに戯画化された凡人らしさなので、一言解説が役に立たない。

ざっくり一言解説は、尊敬する映画ライター高橋ヨシキさんを真似て始めたのだが、色々なことが起こるものに対しては話のスジやテーマがわかるので有効だが、テーマしかないようなお話には不向きであることがわかった。

 薄味のものを薄くしちゃダメなのだ。

 

 

すーちゃん (幻冬舎文庫 ま 10-2)

 「すーちゃん」

色々あって、今のあたしも悪くないなと スーちゃんは思ったのであった。

 

結婚しなくていいですか。―すーちゃんの明日 (幻冬舎文庫)

「結婚しなくていいですか。すーちゃんの明日」

すーちゃんは結婚について色々考えるのであった。

 

どうしても嫌いな人 すーちゃんの決心 (幻冬舎文庫)

「どうしても嫌いな人 すーちゃんの決心」

すーちゃんは同僚がムカつくのであった。

 

すーちゃんの恋 (幻冬舎文庫)

「すーちゃんの恋」

 ネタバレを避けるため、これについては書かない。

 

世界は終わらない (幻冬舎文庫)

「世界は終わらない」

書店員の土田くんは真面目に仕事をしながら人生と生活について考える。

 この本だけはすーちゃんシリーズではない。

すーちゃんの恋に出てきた男の話。

 

 

すーちゃんも土田くんも、今の生活にそれなりに満足しつつも、今のままなのだとしたら‥‥‥という不安を抱えている。

不安を抱えているが、不安が前面に出ると「なーんてね」とか「なに語ってるんだ俺は」とか言ってシャットアウトしてしまう。思考の中ですら人目を気にしてしまうのが印象的。深く、具体的になることを避けて書いてあるため、満遍なく多くの方が共感しやすいように書かれている。

面白かった。

不安を共感させたあとで投げっぱなしにする作風はいかがなものか、とは思うが。

「自分以外の人も悩んでいる」ということに救いを感じる人には癒しの効果もあるだろう。癒されず、不安が増幅される読者もいるだろうが。

 

 

前3作を読んだあとに「すーちゃんの恋」というタイトルを見たときにわたしの中に沸き起こった不穏な感情が、個人的にもっとも盛り上がった部分だ。

得難い体験をいただけた。

ありがたいありがたい。 

 

ところで、すーちゃんシリーズを読んでいて、かつてベビーカーを押していた頃のことを思い出した。

ベビーカーを押して間もない頃、歩道を歩いていたはずが気がつくと歩道から降りて車道の端を歩いていることが多かった。注意して自分の行動を振り返ってみると、対向する歩行者がいる場合に、車道側に降りていたことがわかった。

理屈はこうだ。

こちらはベビーカーを押して周囲を警戒している。小回りが利かないので、事前に手を打つことで対処する。

対して、歩行者側は特段警戒することもないので、連れがいれば並んで歩くし、ベビーカーの近くまで来たら避ければよいと考えている。

その結果、わたしは事前に手を打って車道側に降りてしまう、という理屈だ。

 

「という理屈だ」で終わるわけではなく、もちろん子どもの命を危険にさらすわけもいかぬし、だいたい小回りの利かぬものが車道にいるのも車には迷惑千万であろう。

賢いわたしは理屈を理解すると、居住まいを正して歩道側を堂々と歩いたのだ。「こっちはどかねーから、そっちで避けてくれ。頼むぜ」という意思を持って。

 

欲しいものは手を伸ばさないと手に入らない、という話。

安全とか快適も同様。

安全とか快適と遠い人なら特に、手を伸ばすのをためらってはダメだな、と。

「人を信頼すること」をこんな嫌なエピソードで説明するのもどうかと思うが。 

 

もう一つ無理やり抽象化&一般化すると、強い人は無神経で、弱い人は過敏(過剰に敏感)だという話。

「自分もどこで強い人になって無神経に振る舞うかわからないから気をつけないといけませんね」と各方面に気を使った話を書くわけではなく。

強い人の無神経さも、弱い人の過敏さも、どちらも自分の状況に縛られた視点でカッコよくはないですよ、と全方向に波風を立てて終わる。

 

自分に有利なゲームでも、自分に不利なゲームでも。

そこで何が起きているかを理解した上で、メリットを裏切ったり、デメリットを受け入れたりして、自由に振舞いたいものです。

 

 

ベビーカー問題が炎上してない時期だから書けてよかった。

5.島に行こう

 梅雨は明けてないがすでにしてとても暑い。

そうだ島に行こう。

というわけで県をまたいで島に行きました。 

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 このリゾート感!!!

 

しかし残念ながら本当の姿はこれ。

後ろに見えるガスタンクが工場地帯であることを思い出させる。

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行ったのは妙見島である。

我が町、浦安から一駅区間も移動していないのだ。

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なんという狭小地。

これは島と言えるのか。

田舎に行けば個人の畑とかのが大きいではないか。

 

しかしそれでも島である。

電車で通過する時など、窓にがぶり寄って凝視してしまうほどの魅力がある。

 

週末、色々とあって予定が空き、ごく短時間だが遊びに行こうということで行ってきたのだ。

平たく言えばデートである。

 

島へは浦安橋から上陸した。

自転車に乗って乗り込むことができるので、江戸川区の住人も、浦安市の住人も気楽に乗り込むことができるだろう。

島に着くと、思った以上の交通量に驚く。トラック、ダンプなどの大型車両が狭い道を窮屈そうに走っている。

この島にはリサイクル工場やアスファルト工場があり、埃とアスファルトの匂いに満ちているのだ。

観光客向けスポットは二つだけ。島の入り口付近のラブホテルとマリンクラブだ。

ラブホテルには今回用はない。

それにしてもラブホテルはこれ、どういう人がどういう状況でいくのか。

浦安橋をゼーゼー歩きながら「ちょっと休んで行こうか」とでも言うのだろうか。救心でも飲んだほうが良いのではないか。 それとも東京から浦安に向かう時に「ディズニーに行くと思った? 残念でした」とかやるのか。

謎は深まるばかりだ。

 

そしてもう一つのマリンクラブだが、ランチを楽しむことができる。

 のでここでランチを食べたのです。

終わり。

 

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食事をしながら見たクルーザーやモーターボートのハンガー。

一階じゃないところに停めたらどうやって出すのか。何千万円も出してボートを所有したとて、不自由からは逃れられないことを教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

4.VRゲームの予測について-2(201606)

前回はVRゲームの簡単な説明までを書いた。

 http://wagahaiblog.hatenablog.com/entry/20160619/1466304645

 解消する問題や解消しない問題、VRの強みなどを書いた上で、「VRではシチュエーション体験型のゲームが出るだろう」という誰でも思いつく意見が出たところまでが前回。

 

 本来、すぐに続きを書けると思っていたのだが、どうにも筆が進まぬ。

うーん‥‥。

ちょっとやりたいけど、ちょっとだけだなーという、なんとも申し訳ない感想なのだ。

そう。 わたし、盛り上がってません!

頑張って作ってる人や盛り上がってる人ごめん!

でも期待はしてる。

わたしの予想を覆して欲しくも思う。

でも、その期待って「さえないアタシでも代官山とか原宿行ったらなんかオシャレで素敵なことが起こるかも」みたいな自分の外側にある漠然とした期待に近い。

現状わたしの中ではカメラコントロール楽チンツールでしかないよ。

悪口になってたらほんとごめん。

 

VR推しの人の

「現実にはできないことができる。それがゲームの魅力の本質でしょ。その世界に没入することがゲームの魅力なの。ルールを直観的にしたり、操作を直観的にしていったのも、その世界への没入感を高めるためでしょ。VRは没入感(なりきり度)のレベルが上がるのでこれがゲームの本道ですよ」という意見。

これには、期待が大きいのはわかるけど、うーん。ちょっと宣伝の言葉を本気で受け取りすぎなのではないか、という印象なのです。悪口言う気はないけど、どうしてもそう思っちゃう。

要は意見が違うのです。意見が違うなら、どう違うかははっきり言わないとかえって卑怯なので、言います。

 

 だって、ゼルダでついつい草刈りして遊んだり、マリオでジャンプの際に意味なくしゃがみジャンプしたりすることなんかは、あれはなりきりと無関係な、ゲーム独自の体験じゃないですか。ゲーム独自のルールに没入してるんです。

ストⅡでKO後にビクビク動いたり、意味なく技振るのもそれが気持ちいいからです。

わたしにとってのゲームの本質とは「アクションに対するリアクション」なのだ。これは紙のゲームでも成立するし、確かにそれでわたしにとってはゲームしてる感として満足なので、そこがわたしにとって1番大切なんだと思う。

コンピュータゲームが紙のゲームに比べて画期的なのって、人間の操作に対して、リアクションの部分を超テンポよく、かつ超根気よく、かつ超気持ちよく返してくれる部分が画期的だったんじゃないの?  現実的な体感に近づけることで価値が増すものってあるとは思います。それはVRの得意なところだと思う。ホラーゲームとか、スリルのあるシーンとかね。

でも、体感とは無関係な、ゲームルールにどっぷり浸かった脳でこそ認識するようなそういう気持ち良さがあるのです。で、それってマニアだけが行ける境地なんかではなくて、ちょっと遊んだ程度でも感じられる程度のことなので、ごくごく一般的な能力だと思うの。

 

VRは体感に近づくことで色んな省略を受け入れづらくなり、その省略の少なさがめんどくささを呼ぶのではないか、というのがわたしの偽らざる本音です。

今のゲームを置き換える存在とは全然思えない。同じゲーム機を使うし、ゲーム会社が開発に携わるかもしれないけど、全く別モノとして存在していきそう。

 

VRはアトラクションとしてすごい価値がありそうだと感じてる。

こことか、超行ってみたい。

https://project-ican.com

 

あと、VRが仮想ゲーセンとして機能したらヤバい。miiverseがそうなるのか?とか一瞬思いましたが、大変残念ながらならなかったので。miiverseの目指したものと達成できなかったものについてはまた記事を改めて書きたい。

 

あとヘッドマウントディスプレイは、映画館にとって超厳しいライバル出現だと思う。

どーすんのこれ? って状態だよ。 思いつく対策は、映画鑑賞のあとラウンジでご歓談できるような作りにすればあるいは? とか思うけど、めちゃくちゃキツイライバルだと思う。

 

今回はわたしの普段の話し言葉に近い文体にしてみた。

色々試す。

こんな時もあるさということで。

 

 

 

 

 

 

3.VRゲームの予測について-1(201606)

VRゲームが話題になっている。

わたしが言う、「話題になっている」というのは、そのことについて人と話したということだ。

その会話の中で自分がゲームに求めていることがわかってきたので、そのことをまとめておきたい。

最初に、ここで話題にしているVRゲームというものの定義をまとめておく。この理解のもとにヨタ話をし、ヨタ話をしながら自分は内省的な気持ちになっていったのだ。

ギャグを言って笑いつつ、いつの間にか1人で考え込んでしまうクセがわたしにはある。

歩く迷惑と、呼んでくれてもよい。いや、呼んだら怒るが。怒るがそう呼ぶ権利は保証しよう。それが自由というものだ。

 

現状、VRゲームと呼ばれているものは、以下二つの要素から成り立っている。

一つはヘッドマウントディスプレイに展開されるゲーム画面。

もう一つはゲーム内のカメラコントロール制御を、頭につけた装置の角度調整で行うことだ。

 

VRゲームでは、ゲーム画面はプレイヤーの頭の動きに合わせて右向いたり左向いたり、見上げたり見下ろしたりできる。コントローラについては既存のものも、Kinectのようなモーションコントロールもどちらの操作のゲームもある。これは各メーカーが模索しているところだろう。

 

ここまでが、会話をした2人の理解である。

新しい装置のゲームが出るため、当然ゲーム好きとしてはヨタ話をする。どんなゲームが出たらよさそうか、とか。 あのアレが再現できるのでは、とか。

そんな中で出たヨタ話を以下に架空のゲーム紹介記事風にまとめる。

 

 

スターウォーズ

あの名作映画の人気キャラクターが体験できる。

ダースベイダーとなって、ずっと仮面をつけた不便な生活を体験。Kinect操作で思ったように動かせない手足も、オビワンに切られた後遺症を忠実に再現したもの。無能な部下にフォースグリップでお仕置きも忘れてはいけない。イライラ生活の締めには憎きオビワンとの直接対決が楽しめる。「完全版」のパッケージには皇帝を持ち上げるミニゲームも収録しているぞ。

 

 

コミケ(の行列)」

コミケの行列を体験。

拡声器の誘導に従って列幅の調整や微速前進ををするのだ。腕と腕が触れ合うかのような密集状態で、極限のストレスを感じることができる。隣の人がいきなりキレはじめたり、ちょっと遠くで微妙に間違った知識をひけらかす他人がいるけど平常心を保つのが攻略のコツだ。夏、冬の二つのステージが選べるが、初心者は冬からのチャレンジをオススメする!

 

 

・・・・・・

ヨタ話でキャッキャ盛り上がったところで、UIエンジニア同士、現状のVRゲームがなにを解消して、なにを高め、そして新たな問題を生み出すのかなどを整理していった。なんとこの会話は仕事中にデスクでされたものなのである。上司が離席したタイミングをわたしは見逃さない。

 

▪️VRゲームで解消されるもの

 ・カメラ操作の煩雑制からの解放。

   解説:ここが解消されることで3Dゲームを遊ぶ際の壁が解消されるかもしれない。プレイヤー増加に大きく貢献。

 

▪️VRゲームが解消しない問題

 ・3Dフィールドでプレイヤーが迷子になる問題

 解説:ここについては、引き続きゲームごとのチューニングの分野。迷子になりにくいわかりやすい地形か、特徴的なオブジェクトの配置がキーになるだろう。マップ表示とファストトラベルは便利だが、迷子を助長する可能性も高いので導入は慎重に。

 

▪️VRゲームが価値を高めるもの 

 ・視界すべてを覆うため、臨場感が高まる。

 解説:この影響でなにが起こるかは未知数。期待大。「状況の体験」そのものがゲームという形のものが増えるのではないかと予想。

 

 ▪️VRゲームが新たにもたらす問題

 ・視界全部を覆うため転倒や打撲などの危険性がある。

 解説: 対策として住宅環境などの整備が必要かも。それでも体を動かす操作に関しては危険が伴う。体を動かさないことへの説得力をゲームの状況として与えることで解決できそうだが、ソフトの幅はすごく狭まる。(コミケ行列などの例が該当)

 

ここまでが大体10分程度の会話。(早く切り上げないと上司が戻ってくる。)

 

そしてわたしが書きたい内容はこのことの先にあるのだが、前回2000文字超の記事を書いたら長かったので、次の記事に続きを書こう。

 

2.ニンジャの出るゲームについて

わたしはニンジャが好きだ。

ニンジャが嫌いな人などこの世にいるのだろうか。いやいない。

いたとすればそれは敵のニンジャが嫌いな人だけである。敵にすれば恐ろしく、味方にすれば頼もしい。まして自分がニンジャとなれるなら最高ではないか。ゲームではそれができるのだ。これが心踊らずにいられようか。

というわけでこの記事ではニンジャの出るゲームについて語っていこうと思う。

 

はじめにニンジャの魅力をざっくり一言で解説する。

ニンジャの魅力とは、ズルもアリなヒーローであるところだ。もう一言だけ言えば、ズルによって奇跡を体現する存在がニンジャなのだ。魔法とか超能力は無理っぽいけど、ただのズルである忍術(トリック)ならなんとかなるかも、という捨てきれない子どもの夢が詰まっている。

奇跡的な成果を求められるものの、武器として持つのはしょうもないトリックのみであるというオトナの悲哀とロマンも詰まっている。かようにニンジャはオトナにも子どもにもリーチする類まれなる魅力を持っている。

 

 わたしはズルやトリックが好きだ。炎上が怖いのであくまで遵法の精神に則ると断っておくが、ゲームなどではズルを中心に戦略を立てることがあるくらいにズルが好きだ。ズルに拘泥するあまり、すでに破綻した戦略に乗ってしまうことがあるくらいにズルが好きだ。

なぜか。

ゴールへの近道がズルだからである。近道が極端であればズルと呼ばれ、近道がまっとうなら工夫と呼ばれる。また別の視点では、他者の工夫や努力を台無しにしてしまう類の工夫がズルと呼ばれる。

さよう。わたしは工夫も好きである。努力よりは工夫の人だ。工夫よりはズル寄りの人だ。

書いてて悲しくなってきた。

だが良いのだ。わたしは愛する家族のため、働く時間を最小限にしなければならぬ。同僚には助けられるばかりで申し訳なく思うが、これも乱世の定め。

・・・話がそれた。

  

さて、わたしはニンジャの魅力、本質を「ズルの人だ」と解釈しているところまで語った。

一般に言われているニンジャ好きのイメージとズレているかも知れないので、もう一度整理しておく。

わたしの思う一般的なニンジャのイメージは

・任務に忠実

・掟に厳格

・カネで動く

・なんか変な頭巾かぶってる

・「ニンニン」とか「りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん」とか言う

 

といったところだろうか。

そしてここに挙げたことについて、わたしは特に思い入れがない。

 もっと言えば、それらはニンジャの社会性を保つためのファッションに過ぎないとさえ思っている。好みがうるさくて申し訳ないが、好みぐらいうるさくしたってよいではないか。嫌いなものについてうるさいほうがよほど迷惑というものだ。

一つの文の中で謝罪と謝罪の撤回を行い、次の文では他のものを批判するような節操のなさだが、わたしからはそんなところだ。

 

  さて、この記事のタイトルはニンジャの出るゲームなのである。

 それでは、わたしのおすすめのニンジャゲームを紹介しよう。

 

■ニンジャハットリくんファミリーコンピュータ

 いきなり「ニンニン」じゃねーか! などといきり立たないでほしい。頭巾もかぶっているが、そこに思い入れがないってだけなので、別に好きなところがあれば好きでいいじゃないですか。(いいわけ)

わたしはこのゲームが好きなのだ。好きで何度もプレイしたのだ。エンディングはついぞ知らぬ。当時小学生の身にはこのゲームは難しすぎたのだ。

簡単にゲーム内容を紹介しよう。

右に進んでゴールに向かうゲームである。

‥‥もう少し説明しよう。

 このゲームのハットリくんは初期状態では忍術が使えない。微妙な飛距離の手裏剣と、横方向への伸びが少ないジャンプだけが彼の初期装備なのだ。忍術を使うには消費物である巻物を入手する必要がある。

巻物の入手方法は以下の通りだ。

ザコを10体倒すとメカニンジャが現れ、メカニンジャを倒すと巻物が手に入る。

巻物を集めるたびに現在所有していない忍術が一つずつストックされていく。

 忍術の有効性については、真面目な攻略サイトを当たってくれたほうがよほど有益なので割愛する。わたしはジャンプボタン連打で上空を飛べるムササビの術などが好きだった。ステージの構成を完全に無視できるバランスブレイカーっぷりが最高なのだ。ムササビの術は手に入れるまでが大変なだけあって、放出に見合うだけの効果がある。

そう。このゲームの攻略のキモは貯蓄なのだ。

話だけ聞くと、全くズルくない。むしろまっとうな努力のようにさえ聞こえる。

しかし実際に遊んでみると印象は変わる。ザコの湧くポイントでの単純作業による貯蓄と、忍術放出、散財によるごり押し侵攻のループ。

遊んでいるのか、遊ぶための準備をしているのか、その境目がわからなくなる。ステージの仕掛けを無視する(要はつまらなくする)ために、単純作業を繰り返していく。次第に単純作業特有の心地よさと、奇妙キテレツなBGMにやられ、疑問は薄れただただ貯蓄をする機械となり果てる。気をつけていたはずがタイムアップ寸前になり、無駄に残機を減らしてしまう。

我らの人生の縮図のようではないか。違うのは貯蓄が全く増えないことくらいである。

 

面白かった思い出を掘り起こそうとした結果、トラウマのような酩酊を味わうのもまたゲーム日記の良いところだ。

思い出してよかった。

あれはよかった。

わたしの中に何かを残した。

 

影の伝説ファミリーコンピュータ

目の前でさらわれた姫を取り返すため、ニンジャがすごく頑張る、というゲーム。

ジャンプ力が特徴的で、セコイアのような高さの樹すら軽々と飛び越えられる。3画面分くらい飛ぶのではないか。この主人公はマブカプに出てもスーパージャンプなしでやっていける。

 このゲームはエンディングまでいけた。

 

2人用でよく兄と遊んだのだが、当時の2人用モードはひとりが遊んで、一機分ミスをしたあとで交代でプレイできるというものだった。

が、なぜそういう裏技があるのかはわからないが、このゲームの恐ろしいところとして、オープニングデモ中に自機が殺されることがあるのだ。まさに全体未聞。空前絶後

格ゲーで言えば「ラウンドワン・・・ファ KO!」のようなものだ。

兄のプレイを見ながら自分の番が来るのを30分以上待った後、自分の番になった時にオープニングデモの開始と共に敵の投げるかんしゃく玉の音がした時の絶望感。

姫がさらわれ、画面の左手に消えた後、樹上より落ちてくる自機(死亡済み)

これほどの理不尽がゲームで許されるのか。ゲームだから許されるのか。

心を鍛えるゲームなのである。

一度は遊んでみてほしい。

一度は同じ目にあってほしい。

忍び難きを忍ぶ者として。

 

メタルギアソリッドプレイステーション

もはやニンジャではないが、忍ぶ者であり、ズルく立ち回ることを余儀なくされるゲームデザインであるため、最高峰のニンジャゲームと言ってよいだろう。あ、敵にニンジャも出てくる。

 

「よくわからないけど、超緊迫した状況に1人で潜入して頑張る、でも装備はなにもなし。現地調達が基本だ」というのがメタルギアの基本設計。まるで会社の日々のようではないか。炎上案件から炎上案件に、落下傘部隊として飛び降りる我ら企業戦士の姿と重なる。

 茶化す必要もないくらいグッとくるシーンも多く、毎回プレイすると泣いてしまうのだが、このブログではウェットなことを書いても誰も喜ばないであろうから、そこは割愛。

 

敵スナイパーとのスナイプ合戦も、ミサイルカメラで雑にクリア可能であったりと攻略の幅が広いのも見逃せない。

psアーカイブで配信されているので、未体験の方は是非。

 

ニンジャの出るゲームは他にも色々と遊んできた。ニンジャコップサイゾーADKの怪作ワールドヒーローズなど。

 

思い入れの強いテーマなので、シリーズ化していこうと思う。

思い出す旅はただただ楽しかった。

 

 

 

 

 

 

1.はじめに

 自分の寿命があと何日とも知れない状況になった時、わたしは遺言として何を残すだろうか、と考えてこのブログを始めることにしたのだ。

 主に扱う内容は、私がプレイしたゲームの感想である。あれ楽しかった、ここでマジむかついた、とかを貧困な語彙と野蛮な品性で綴っていく予定である。寿命がそれほど長くない人間が書いているため、調べる時間がなく不正確な情報が記載されるだろう。

 「おまえ、死の際にゲームの話かよ」と思われるかもしれないがそこはそれ。わたしが死んだあとに家族が私を思い出すために最適なものを残しているつもりなのだ。

ブログは電子なので場所もとらない。

字がヘタでも読みやすい。

物理媒体に依存しないため、無くしてしまうことない。

文明には足を向けて眠れない。

 

 わたしは 万葉集が国家プロジェクトだったこともすごく好きで、それもこのブログ開設の遠い動機になっている。

お金をかけて残そうと思ったものが役に立つわけでもない「歌」であり、それが今にも伝わっているという事実は、これちょっとすごいことじゃないかと思うわけである。

歌の内容には一部今の価値観では受け入れがたいものもあるが、それを含めて残したことがすごい。

そう。このブログはそうした、他人にとって受け入れがたい部分も含めて、残せればいいなと思っている。

家族はそれを読んで思い出して泣くかもしれないし、思い出し怒りするかもしれない。

そういうことである種の生き返りや自己複製化を目指したブログなのだ。

 

 なお、筆者は特に持病もなく健康体で、寿命が短いわけでもないので、過剰な感情移入は不要である。怒って文句を言いたくなった時だけ「コイツもう寿命が短いんだな」と思い直してご容赦いただけたらと。

「そういう設定で読んでくださいね」というお願いである。

こういうことを言うやつなのだ。わたしは。

合わないと思ったら読まないことをオススメする。