mahさんの漫画紹介記事が大変面白かった。
ので、わたしもすーちゃんシリーズを読んだのであった。
http://mah-soresore.hatenadiary.jp/entry/2016/06/16/230952
http://mah-soresore.hatenadiary.jp/entry/2016/06/17/124647
するどい視点と品の良い文章だ。
あやかりたいあやかりたい。
以下、一冊ごとにざっくり一言解説する。
やってみてわかったが、この漫画の要諦は思考速度のテンポと、抽象的かつシンプルに戯画化された凡人らしさなので、一言解説が役に立たない。
ざっくり一言解説は、尊敬する映画ライター高橋ヨシキさんを真似て始めたのだが、色々なことが起こるものに対しては話のスジやテーマがわかるので有効だが、テーマしかないようなお話には不向きであることがわかった。
薄味のものを薄くしちゃダメなのだ。
「すーちゃん」
色々あって、今のあたしも悪くないなと スーちゃんは思ったのであった。
「結婚しなくていいですか。すーちゃんの明日」
すーちゃんは結婚について色々考えるのであった。
「どうしても嫌いな人 すーちゃんの決心」
すーちゃんは同僚がムカつくのであった。
「すーちゃんの恋」
ネタバレを避けるため、これについては書かない。
「世界は終わらない」
書店員の土田くんは真面目に仕事をしながら人生と生活について考える。
この本だけはすーちゃんシリーズではない。
すーちゃんの恋に出てきた男の話。
すーちゃんも土田くんも、今の生活にそれなりに満足しつつも、今のままなのだとしたら‥‥‥という不安を抱えている。
不安を抱えているが、不安が前面に出ると「なーんてね」とか「なに語ってるんだ俺は」とか言ってシャットアウトしてしまう。思考の中ですら人目を気にしてしまうのが印象的。深く、具体的になることを避けて書いてあるため、満遍なく多くの方が共感しやすいように書かれている。
面白かった。
不安を共感させたあとで投げっぱなしにする作風はいかがなものか、とは思うが。
「自分以外の人も悩んでいる」ということに救いを感じる人には癒しの効果もあるだろう。癒されず、不安が増幅される読者もいるだろうが。
前3作を読んだあとに「すーちゃんの恋」というタイトルを見たときにわたしの中に沸き起こった不穏な感情が、個人的にもっとも盛り上がった部分だ。
得難い体験をいただけた。
ありがたいありがたい。
ところで、すーちゃんシリーズを読んでいて、かつてベビーカーを押していた頃のことを思い出した。
ベビーカーを押して間もない頃、歩道を歩いていたはずが気がつくと歩道から降りて車道の端を歩いていることが多かった。注意して自分の行動を振り返ってみると、対向する歩行者がいる場合に、車道側に降りていたことがわかった。
理屈はこうだ。
こちらはベビーカーを押して周囲を警戒している。小回りが利かないので、事前に手を打つことで対処する。
対して、歩行者側は特段警戒することもないので、連れがいれば並んで歩くし、ベビーカーの近くまで来たら避ければよいと考えている。
その結果、わたしは事前に手を打って車道側に降りてしまう、という理屈だ。
「という理屈だ」で終わるわけではなく、もちろん子どもの命を危険にさらすわけもいかぬし、だいたい小回りの利かぬものが車道にいるのも車には迷惑千万であろう。
賢いわたしは理屈を理解すると、居住まいを正して歩道側を堂々と歩いたのだ。「こっちはどかねーから、そっちで避けてくれ。頼むぜ」という意思を持って。
欲しいものは手を伸ばさないと手に入らない、という話。
安全とか快適も同様。
安全とか快適と遠い人なら特に、手を伸ばすのをためらってはダメだな、と。
「人を信頼すること」をこんな嫌なエピソードで説明するのもどうかと思うが。
もう一つ無理やり抽象化&一般化すると、強い人は無神経で、弱い人は過敏(過剰に敏感)だという話。
「自分もどこで強い人になって無神経に振る舞うかわからないから気をつけないといけませんね」と各方面に気を使った話を書くわけではなく。
強い人の無神経さも、弱い人の過敏さも、どちらも自分の状況に縛られた視点でカッコよくはないですよ、と全方向に波風を立てて終わる。
自分に有利なゲームでも、自分に不利なゲームでも。
そこで何が起きているかを理解した上で、メリットを裏切ったり、デメリットを受け入れたりして、自由に振舞いたいものです。
ベビーカー問題が炎上してない時期だから書けてよかった。