まがレールというものをご存知だろうか。
プラレールのパーツである。
使っているところはこんな感じ。
蛇腹のような構造になっていて、ほぼ無段階に自由なレイアウトを作ることができる。
プラレールでレールを作ってみるとわかるのだが、線路の最後の円を繋げるのが案外難しいのだ。
これと
これを使って複雑な図形を書いて円を閉じろという数学の試験が出たら、シンプルな形の回答ばかりになるのではないだろうか。
そこで出てくるのがまがレールである。
まがレールを間に入れることで、ある程度の歪みも解消してレールを繋ぐことができるのだ。
例えるなら、コンパスと定規を使って幾何学模様を書いたあとで、一番最後にフリーハンドの線で無理やり繋ぐような、そんなことができる。
要はまがレールとはつじつま合わせからの解放が具象化した商品なのだ。クリエイティブの苦労とつじつま合わせの苦労を分離する商品なのだ。ああなんと素晴らしい。うっとりする。
みなさんおひとつどうぞ。
2個も3個もあるときっと幸せも2倍3倍だ。
というわけでここから発想の飛躍を行う。
最近創作活動を行なっていることもあり、「物語のつじつま合わせって面白さに寄与するのではなく、つまらなくなさにしか寄与しないよなー、その割に大変だよな」ということを考えていた。そしてわたしの目の前には子どもが遊ぶまがレールが。
この二つが繋がってスパークを起こし、こんな文章を書いている。
「物語のつじつまって、物理的なつじつまをたとえ話として使ってるだけでまったく別の概念なんじゃないの?」という冷静な声も自分では認識している。
それでも敢えてここは飛躍を続けてみたい。
思考テーマは「物語上のまがレールは存在しうるか?」だ。
今回着地点を決めず締め切りだけ設けて書く。2/23までこの記事をチクチク更新して物語上のまがレールを探し出す予定です。
仮説1
(注意:タイタニックと続・猿の惑星のネタバレが含まれます)
タイタニックなどの沈没船を舞台にしている物語は、過程に何かあっても「色々あって生き残ったorダメだった」に収斂されるから物語上のまがレールではないか?
続・猿の惑星の「やけくそでコバルト爆弾を爆破して、地球ごと消滅」なども物語上のまがレールである。登場人物が全て消えればおしまい。余談だけどこの続・猿の惑星にはさらに続編がある。あるが、そのことはここでは語らない。自分で調べて楽しんでくれると嬉しい。
仮説2
歴史モノ伝記モノなど結末がどうなるかを教養として皆が知っている物語も、ある意味物語上のまがレールと言えないか。この場合、結末に物語の面白さを込めるのではなく、結末までのドラマやエピソードに面白さを用意する必要がある。(あの悪役も色々あって悪くなった、英雄の活躍の裏で色々と苦労があったなど)
スターウォーズのエピソード1、2、3もこれにあたるだろうし、最新作のローグワンもこれだ。
‥‥‥あんまり、面白くない例だが‥‥いや、よそう。
仮説3
最初に戻るラスト。
注意:小説ドグラマグラ、映画ロッキー3のネタバレが含まれます。
スタート地点、またはこれからの展開が予想できるところで終える方式。ドグラマグラ、ロッキー3など素晴らしい作品も多い。
ロッキー3のお互いのパンチが交錯するところで画面が止まるラストなどは、もうそれだけで泣いてしまうくらい好きだが、これはわたしの趣味が色濃く出ているだけだろう。また、スタート地点に戻すまでは自力でやらねばならないので、正確には物語上のまがレールではない。
仮説4
大いなる敵。第三者の敵など。
注意:映画バットマンvsスーパーマンのネタバレが含まれます。
バットマンvsスーパーマンはスーパーマンを自然災害として扱い、人間がそれを退治できるかという話で、前半は両者の確執が描かれるが、後半に別の敵が現れて共闘することで違う話にシフトした。おそらくどんな話でも宇宙人が攻めてくれば別の話にシフトし、最後に大統領演説が入れば話は終わる。子育てママの奮闘物語でも都会に憧れる田舎娘の話でも。
仮説5
超常的な味方。ドラエもんなど。
これはテレビシリーズなどの下敷きがあり、ドラえもんが超常的であることを見る人皆が知ってるがゆえの裏技。ファンフィクションを書く気は無いので、こちらは検討しない。
余談だけどドラえもんが出木杉くんの家に来ていたら、デスノートのライトくん以上のことをやってしまっただろう。やりすぎくんである。
総論
仮説5まで書いたところで、どれもロクな話にならなそうなものしか思い浮かばないことがわかってきた。どれも苦労をかけて作った部分も含めて台無しにしてしまうようなアイディアばかりだ。なにに起因しているかはもうしばらく考える。
そして考えた結果、それまでの話よりも大きいものを入れることで解決するやり方がまずいのではないかと思い至った。
また、大きい話自体は借り物&出来合いのため、見たことのあるものにしかなっていないのだ。
物語の魅力の一つに「この話はどこに落ち着けるのだろう。どこまで連れて行かれるのだろう」というところがあるが、ここが完全に失われてしまうのだ。
出来合いの話95と普通話5ぐらいの割合で物語を作ったら、それは新たに作る意味がないだろう(製作会社の手を休めないとか、そういう副次的なことは置いとくことにする)
「大きさ5ぐらいのオリジナル部分を見てくれ!」という動機では、読む側も書く側も95の茶番に付き合うのは厳しい。
どうせフィクションはウソなのだから。
書き手から「この部分はお約束ですので〜」なんてやられたら、読み手も茶番部分は読み飛ばす。
というわけで、話に適切な、短い接合部が必要なのだと気付いた。
ここまで書いて、前回の自分の小説では、文脈のつなぎを強引に変えることができる主人公を用意して乗り切った。「○○について説明する」などの言い方ができるキャラクターで大変書きやすかった。
読者の読み飛ばしならぬ、書き飛ばしという感じか。正確に文脈が繋がらなくても会話は成立することを利用しているのだろう。
散らかって来ているので一旦この話はおしまい。次回に、超うさんくさいことで評判のマインドマップにまとめます。
追記:3年後にわたしは創作における一つの型を発見したのでそのことは以下の記事にまとめました。
https://wagahaiblog.hatenablog.com/entry/20201014/1602673265